サステナビリティ

ARUHIアワード

【ARUHIアワード】
『おたんじょうびおめでとう』
万野恭一

アジア最大級の国際短編映画祭ショートショート フィルムフェスティバル & アジア (SSFF & ASIA)が展開している、短編小説公募プロジェクト「BOOK SHORTS (ブックショート)」と当社がコラボレーションし、3つのテーマで短編小説を募集した「ARUHIアワード」。応募いただいた作品の中から選ばれた優秀作品を全文公開します。

 ふと目が覚めるとカーテンのすき間からは強めの陽光が射し込んでいた。置き時計に目をやると九時半を示している。当然ながら隣のベッドに美花の姿は無い。階下からはカチャカチャと食器のふれ合う音や、子供達の話し声がかすかに聞こえてくる。ベッドから降りてカーテンを開けると、空は文字通り目の覚めるような晴天だった。

 階段を降りていくと、対面式のキッチンで洗い物をしている美花と目があった。彼女と子供達はとっくに朝食を終えていた様だった。
「おはよう」
「おはよう」

 朝ご飯、と美花はアゴで目の前のダイニングテーブルを示した。私がいつも座る場所にベーコンレタスサンドとキウイ、コーヒーポットとマグカップが用意してある。
「ありがとう」

 私はテーブルにつき、マグカップにコーヒーを注いだ。すぐ横のリビングに目をやると、長女の百花がソファーに腰掛け、テレビでアニメを見ている。少女が変身して悪と戦う巷で人気のやつだ。土曜の朝は姉妹で仲良く肩を並べてこのアニメを見るのがお決まりの光景だったが、今日は違う。次女の千花は、私のはす向かい、ダイニングテーブルの自分の席で、画用紙に何やら絵を描いている。私はカップを口に運びつつ、横目でその画用紙を確認した。画用紙には四人の家族らしき姿が描かれている。一番背の高い女性は美花で、長い黒髪を一つしばりにしているのは百花、一番小柄でおかっぱの女の子は千花で間違いないだろう。と、なると唯一の男性らしき人物は私という事になるだろうか。皆笑顔で、幸せそうに描かれている。幼児特有のかわいらしい絵に、思わず目を細めてしまった私だったが、よく見ると、その絵には一つ不思議な点がある事に気付いた。画用紙の上の方に、「おたんじょうびおめでとう いつもありがとう」というメッセージが添えられているのだ。おたんじょうび・・・・・・。誰の?
「みないでよ!」という千花の言葉とともに、画用紙は小さな両手で覆われてしまった。私はいつの間にか彼女の絵をガン見していたのだ。
「どうしたの?千花。お父さんに何かされた?」

 洗い物を終えた美花がアイランドキッチンを回り、テーブルの方へとやって来た。
「あら、上手ねえ」

 美花の言葉に、千花は「へへ」と嬉しそうに笑う。私には隠したくせに、母親である美花に絵を見られるのは構わない様だった。
「どうしたの?」

 こちらの様子が気になったのか、テレビを見ていた百花もやって来た。
「かわいい!・・・・・・でも、『おたんじょうびおめでとう』って誰の事だろう?」

 そう。私もまさに同じ疑問を抱いていたのだ。家族で、直近に誕生日を控えている人間はいない。美花と百花は、一ヶ月前の九月に終えたばかりだ。逆に私は十一月なので、まだ一ヶ月ほど間がある。
「お母さんの事じゃないかな?」

 美花が少しおどけた調子で言った。
「『いつもありがとう』って書いてあるし。だってほら、みんなのご飯つくったり、お洗濯したり、家のお掃除したりって、全部お母さんやってるでしょ?」

 その言葉に、百花が「私だって」と対抗する。
「いつも千花ちゃんとお風呂入ってあげてるし、一緒に学校も行ってあげてるし、一緒に遊んであげてるもん。『いつもありがとう』って言うのは、きっと私に対してだよ」
「そうかなあ?」
美花は首をかしげる。
「昨日千花の事泣かせてたの誰だっけ?」
「あれは・・・・・・千花ちゃんが私の色鉛筆勝手に使って、芯を折っちゃったから・・・・・・。千花ちゃんだって謝ってくれたし、私だって許したし、ちゃんと解決したもん」

 百花は少しムキになって答えた。
「そういうお母さんだって、おととい千花ちゃんの事泣かせたじゃん」
「おととい?」
「ほら、千花ちゃんが選んだ豆乳の今川焼、お母さんが間違って食べちゃったでしょ?」
「ああ・・・・・・」

 美花は一瞬だけ気まずそうな表情を見せたが、「だってあれ外見じゃ全然分からないんだもん」とすぐに開き直った。

「わかるよ。裏側見れば、真ん中あたりにちょっとだけ穴が開いてて、そこからクリームの色が見えるから、ちゃんと判断できるもん。確認しないお母さんが悪いんだよ」
「へえ~。そういう事言っちゃっていいんだ。・・・・・・そもそもあれを買ってきたの誰だっけ?」

 百花は、うっと言葉に詰まる。当然美花だろう。
「もう買ってくるのやめよっかなあ~」
「お母さんずるい!大人げない!」

 もはや当初の話題から完全に逸れている。このままだと百花が少しかわいそうなのと、話を元に戻す意味も込めて、私も参戦する事にした。もちろん、千花の絵が誰に向けられているか、についてだ。
「お父さんの事じゃないかな」

 二人は一斉に私の方を見た。
「ほら、二人はさ、もう誕生日終わっちゃったでしょ?そう考えるとお父さんはまだ少し先とは言え、まだこれからだから。終わった誕生日をもう一回お祝いしているというよりは、少し早めにこれからの誕生日をお祝いしている可能性の方が高いのかなって・・・・・・」

 気が付くと、美花と百花は無表情で私を見つめていた。冷たい視線とかではない。何の感情も宿していない完全な無表情だ。
「・・・・・・あれ?」

 何かおかしな事を言っただろうか。私は動揺した。少しして、美花が無表情のままフンッと鼻を一つ鳴らした。
「いや。ありえないでしょ」
「ありえない」

 百花も続く。
「え、なんでよ。お父さんだって一応頑張ってるつもりなんだけどな・・・・・・。仕事とか」

 自分で言っておきながら私は情けなくなってしまった。こんな事、父親が自らの口から言うべきではない。けれど私は思わずそれを口走ってしまうほど、二人の反応にショックを受けていた。
「うわ。出たよ」
「出た出た」

 美花と千花が顔を見合わせ、うんざりした様子で言った。
「それ言えば勝てると思ってる」
「感じ悪いね」
「ね」
「べ、別にそういうわけじゃ・・・・・・」

 私は反論を試みたが、「大体さ、」とすぐさま美花にさえぎられた。
「あなた最近全然千花ちゃんと遊んであげてないじゃない」
「そうそう」と百花も続く。
「千花ちゃんが、『一緒にねんどしようよ』って言っても『ちょっと待ってね』、『公園行こうよ』って言っても、『ちょっと待ってね』ばっかりでさ」
「そう、それ!」

 百花の言葉に、美花が激しく同意した。
「で、結局遊んであげないんだよね。だから、その分まで全部私たちが相手する事になるの」
「そうそう!」
「そもそもさ、お父さんって千花ちゃんの事に限らず、全てにおいてそうなんだよね。町内会とか、百花と千花の学校の大事なお知らせとか、『一応読んでおいてね』って渡しても、『うん、後で読んでおく』って言ったきり、テーブルに置きっぱなし。せっかくキッチンが広くなったんだから食洗器が欲しいって言った時も、『そうだねえ』とかお茶を濁したっきり、そのまんま」

 美花の攻撃は、普段から私に抱いている不満にまで及び始めた。
「待て待て。確かにそれは悪かったけど、今話しているのは・・・・・・」

 私は話を元に戻そうとしたが、美花の勢いは止まらない。
「洗濯物だって、何回言っても白いカゴに入れないで、脱衣所に脱ぎっぱなしにするし、『休日くらい朝ごはんをみんなで食べよう』って自分から言いだしたくせに、今日だって起きてきたのは断トツでビリっけつだし、それから・・・・・・」
「うるさーい!」

 と、叫んだのは千花だった。
「絵にしゅうちゅうできない!みんな、あっち行って!」
「・・・・・・ごめんなさい」

 全員がピタリと話すのを止め、千花に謝った。彼女の言葉に従って百花は再びテレビ前のソファーへ戻り、美花は二階へと上がって行った。朝食中だった私は立ち去るわけにも行かず、肩をすぼめて食べかけのベーコンレタスサンドを口に運んだ。

 それから数分間、邪魔者の消えた千花はお絵描きに没頭し、私が食事を終えるのとほぼ同時に、「できた!」と画用紙を掲げた。彼女は勢いよく椅子から降りると、リビングの掃き出し窓を開けて大人用のサンダルをはき、芝生の庭へと飛び出した。千花のただならぬ様子に、私もつられて彼女の後を追った。

 千花は庭の中央まで進むと、くるりと振り返り、仰ぎ見るようにして「お誕生日おめでとう!」と叫んだ。
「・・・・・・え?」

 千花は一体誰に向かって叫んだのだろう。彼女の目線の先には、我々の住む家しかない。その時、千花の手にする絵が、ふと私の目に入った。そこには、既に描かれていた私達家族に加え、その周りを囲うように枠線が足されていた。台形と正方形を縦にくっつけたような枠線。私は瞬時にひらめいた。家だ。家であっている。

 美花でも無く、百花でも無く、私でも無く、千花はこの家の「誕生日」を祝っていたのだ。確かに我々一家は、一年前の今日、この家に住み始めた。私はもちろん、美花と百花もあまり意識していなかったその日を、千花だけが明確に記憶していたのだ。

 二階のバルコニーでは、美花が鼻歌交じりで洗濯物を干している。午前の爽やかな陽光を浴びながら、ゆったりと、けれど滞ることなく作業を進めていくその姿は、まるで踊っているかの様に優雅だ。美花は私が見ている事に気付くと、照れくさそうに「フフ」と笑い、首をすくめた。

 彼女が洗濯物を干す時に鼻歌を歌う様になったのは、この家に引っ越して来てからだった。前に住んでいたアパートのベランダは、六畳間一部屋分の幅しかなく、とにかく狭かったのだ。百花、千花の両方が保育園に通っていた頃などは、二人とも一日に何度も服を汚して着替えるので、洗濯物は凄まじい量になった。物干し竿だけでは足りず、ベランダの手すりまでびっしりとピンチハンガーで埋まる中、美花は毎日、時にはイナバウアー状態になり、時には老婆の様に腰を丸めて必死に洗濯物を干していたのだった。彼女が発していたのは鼻歌などではなく、「うっ」とか「イテテ」という、うめき声だった。

 感慨深い気持ちで美花の様子を眺めていたら、家の中から「ドッドッドッ」という足音が響いてきた。百花が階段を駆け上がったのだろう。
「百花、走ったらダメよ」

 美花が良く通る声で、家の中に向かって呼びかけた。もちろん、足を滑らせたりしたら危険だからだ。

 前の家では、美花だけではなく、私ももっと鋭い声を出していた。
「静かに!」
「何回言われたら分かるの!」

 私達はアパートの二階に住んでいた。子供達が危険だから、というよりも、私達はむしろ下の階へ迷惑をかけないよう、神経を尖らせていた。アパートの住人は私達のようなファミリーばかりでは無い。年配のご夫婦もいれば、若い人の一人暮らしもいる。幸いにして、私達は退去するまで一度も下階の住人からクレームを受ける事は無かったが、同じアパートに住み、やはり私達の様に小さな子供のいる知人家族は、足音がうるさいという理由で下階の住人とトラブルになっていたのだ。

 この家は一軒家なので、足音で他人に迷惑をかける心配は無い。引っ越してからというもの、私達は下階の住人への気遣いから解放され、また、子供達も、私達の怒声から解放されていた。

 この家に来て良かった事はそれだけじゃない。百花と千花には、ちゃんとそれぞれの部屋があるし、料理好きでお喋り好きの美花には、対面式で前よりもずっと広くなったキッチンがある。庭を持ち、家族全員の念願だった、犬を飼うこともできた。

 全員が喜び、全員が前よりもずっと幸せになるはずだったのに・・・・・・千花だけは違った。

 引っ越して来た日の夜、まだ開封されていないダンボールがたくさん残るリビングで彼女は不意に泣き始めた。「引っ越したくなかった」と言いだしたのだ。

 前のアパートから新居までは、三、四百メートルしか離れていなかった。アパートが手狭になったというだけで、私も美花も緑の多いこの辺りの環境は気に入っていたのだ。百花や千花も、せっかく慣れた学校や保育園から移動させるのは忍びない。私達夫婦は、子供たちの学区が変わらない範囲内で建て売りの一軒家を探し、この家を見つけたのだ。

 前と変わらず仲良しのお友達とも遊べるし、お気に入りの公園にだって歩いて行ける。それなのにどうして?私は千花に聞いた。
「窓からあじさいが見れなくなるから。それに、優しいおじさんとあんまり会えなくなるから」

 彼女はとつとつと答えた。二つある和室のうちの一つ、リビング代わりとして使っていた部屋の窓の下には、たくさんのアジサイが植えられていた。梅雨の花盛りになると、千花は出窓を机替わりにして、よくアジサイの絵を描いていた。彼女はアジサイを、その窓から見える景色をとても気に入っていたのだ。

 優しいおじさんとは、お向かいで一人暮らしをしていた山田さんの事だろう。年配の山田さんは、百花と千花を実の孫の様に可愛がってくれた。公園で遊んでくれた事もあったし、ミカンやお菓子をくれる事も度々だった。百花も千花も山田さんの事が大好きだったが、小さい千花はより彼になついていたのだ。

 千花の気持ちは理解できた。百花と彼女にしてみれば、生まれた時からずっと暮らしてきた家なのだ。あじさいや山田さんの事に限らず、私や美花と一緒に入った風呂おけや、彼女がべたべたにシールを貼ってしまったふすまや、自分と百花の身長が刻まれた柱など、あの家には数えきれない程の思い出が詰まっているのだろう。

 私だって、美花と二人だけの頃から過ごした家と別れるのは寂しかった。けれど、私にはマイホームを構え、そこで新しい生活を迎える方が、より皆が幸せになれるという確信があった。だからこそ、私は三十五年のローンを組み、一生を賭した買い物をする気になれたのだ。

 事実、家が前よりもずっと広く、新しくなった事を、美花と百花は心の底から喜んでくれていた。

「じき、慣れるわよ」という美花の言葉通り、引っ越してから一か月ほどで、千花は「前の家に帰りたい」とは口にしなくなった。けれど、彼女は、文字通り「慣れた」だけの話であって、この新しい家を受け入れられずにいるのではないだろうか。今日に至るまで、私は心のどこかでそういう不安を抱え続けていた。

 その千花が今日、この家の「誕生日」を祝った。「いつもありがとう」とも記した。

 私は一年間怖くて口に出来なかった言葉を、意を決して千花に投げかけた。
「千花ちゃん、この家好き?」

 千花は不思議そうに私を見上げたかと思うと、すうーっという音が聞こえるほどに思いきり息を吸い込んだ。
「大好き!」

 その瞬間、私は目の奥がキュンとしびれて、たちまち千花の姿がぼやけた。私はたまらず家の方を見上げて言った。
「良かった。お父さんも、今日やっと大好きになれたよ」

 気が付くと、いつの間にか百花も二階のバルコニーに出ていた。美花と並んでニコニコとこちらの様子を眺めている。

 そうだ。遅くなってしまったけど、お世話になった山田さんをこの家に招待しよう。そして、子供部屋の下にはたくさんのアジサイを植えよう。

 私には、また叶えたい夢が出来てしまった。