サステナビリティ

ARUHIアワード

【ARUHIアワード】
『LoveDays』 松田ゆず季

アジア最大級の国際短編映画祭ショートショート フィルムフェスティバル & アジア (SSFF & ASIA)が展開している、短編小説公募プロジェクト「BOOK SHORTS (ブックショート)」と当社がコラボレーションし、3つのテーマで短編小説を募集した「ARUHIアワード」。応募いただいた作品の中から選ばれた優秀作品を全文公開します。


明日で15歳になるが実感はわいてこない。
たぶん明日もいつものように太陽が昇り、携帯電話のアラームで目覚め、犬の吠え声がし、また何も変わらない日を生きるのだと思う。
これは、14歳最後の日に書いた、15の私へ贈る愛の備忘録。

1
母はチャレンジ精神にあふれた人だった。中学受験を控えた私にいつもお菓子を買ってきてくれたのだが、同じお菓子をもらったことがない。新作や期間限定のものを見るとすぐに手をだし、聞いたこともないメーカーにも臆することなく挑んだ。ほとんどのものが私の口に一度だけ入り、今生の別れと相成った。コマーシャルで見る、有名で味が保証されている大手メーカーのものだけ買えばよいのではないか、母に一度だけ抗議したことがある。

「人生は一度しかないんだ。同じことを30回経験するより30個のことを一度ずつ経験した方がきっとためになる」とすました顔で挑戦者はけろりと言った。それからというものは私もこういう性分の家に生まれたのだ、しょうがないと割り切ってまた一口目で母へ渡すのだった。

2
母は「気持ち」を何より重視した。小学生の頃、毎週日曜日に穴の開いていない銀色の硬貨を2枚受け取るだけだった私は友達に満足な誕生日プレゼントを贈ることが難しかった。

母に事情を話せばいくらか援護射撃をしてくれるが、高価なものやたくさんの品を贈ることは許されなかった。値札をにらみ吟味する私の後ろから「小学生のプレゼントなんて500円でよろしい。大切なのは気持ちだ。たくさんの贈り物より長い一通の手紙だ」と呪いのように唱えた。当時私の周りでは筆箱を贈り合う事が定番だった。筆箱は自身の権力の象徴であり、武将にとって城のようなものだった。クラスの中で目立つ子ほど流行の最先端の筆箱や、可愛らしいキャラクターがプリントされたとても大きな筆箱を持っており、無地の小さな筆箱を持つことなど論外だった。このようなカースト制度により、今どきの筆箱を贈れば感謝され、運がよければ自分の階級も上がり、自分の誕生日にはお返しとしてさらに最新型の筆箱をもらえるというウィンウィンの関係がそこにあった。しかし値札には最低でも0が3つはつくため、私が友達に筆箱を贈った記憶はなく、贈られた記憶もない。安物の筆箱を使う親友に自分のおさがりをあげる始末だった。

母は誕生日が「何かプレゼントとケーキの日」となることを危惧していたようだった。誕生日とは読んで字の如く「誕生した日」であり、「あなたが生まれてくれて、出会えた」こと祝う日なのだと語っていた。母は必ず私の誕生日には手紙を書き、娘にもそれをさせた。「モノでは伝わらない何かを言葉にするんだ。人類の言語発達の意義はそこにある」と小難しいことを論じていた。幼いころこそ渋々だったが今ではその事が染みる。誕生日プレゼントに手紙を添える人は周りにはあまりいない。そんな時、どんなものをもらっても、それこそ高価な筆箱を頂戴しても、どこか心に穴が生じ、すきま風が冷気を誘う。何だか物が普段より無機質なモノに見え、「これで満足か。お返しを待っているぞ」という言葉がどこからか聞こえてくる。だから私は人にプレゼントを贈るときは、同じ思いをさせないよう必ず便箋一枚以上の長文を添える。この習慣は5年間ずっと続けてきた。

3
母は愛にあふれた人だった。学生が自殺をしたニュースを見ては「辛いなら無理して学校に行くことなんてなかったのに。辛いなら休んでいいのに。どうして周りの大人が気づいてあげられなかったんだろうね」と言い、熊や鹿などの動物が住宅街に出没したというニュースでは捕獲シーンで目を背け、慌ててチャンネルを変えた。恵まれない子供たちのために毎月募金をしていた。そんな母との、備忘録に記さなくとも忘れることのできない思い出がある。

私の学校では中学三年生から海外研修に行けるチャンスがあり、今年の行き先はオーストラリアだった。母はオーストラリアをこよなく愛していた。海外に行くことを夢見て働き、十分な金額がたまった暁にオーストラリアへ旅立った。異文化に驚いたが、実のあるものだったといつも自慢げに語った。母が訪れた地を私もこの足で歩きたいと思い、応募した。母のように自腹というわけではないが、自分の力で外の世界を見ようと行動したことに自分自身で驚いた。定員は20名だったが、応募前の希望者説明会では60人が出席していた。結局本応募をしたのは30人だったため、いくらか不安が消えた。英語の成績の順に選ばれるため、私は余裕に感じていた。私はそのとき最も上のクラスで英語の授業を受けていたからだ。もちろん油断は出来ないため、志望動機書を今までで一番綺麗な字で書き、枠からはみだしてまでオーストラリアへの情熱を炭素に託した。誕生日プレゼントの長文の手紙を書いた5年分の文章力がそこに結集した。これで当選は間違いないだろうと思った私は天国から地獄に落とされた。当選者発表の少し前、くじ引きで決定するという知らせがあった。すべてが無駄になった瞬間だった。その日は金曜日で、くじ引きは月曜日だったため、怒りと哀しみに耐えて2日を過ごす羽目となった。絶頂転じて絶望のどん底に落ちるということを味わったことが無かった私にとって、あまりにも過酷な壁だった。睡眠不足が続き、日曜日には風邪をひいていた。当たらなかったらどうしよう、いや、くじ運は持っている方じゃないか、でも最近はツイてないし、3分の2の確率だし・・・
そんなことをぐるぐると迷宮の果てまで考え、床についた。

ついに月曜日がやってきた。風邪は治らず、はっきりしない意識のまま学校へ向かった。くじ引きは昼休みに行われるため、午前中の授業は全く耳に入っていなかった。何の授業だったかも覚えていない。4時間をなんとかやりすごし、くじ引きを開催する教室へと向かった。くじ引きはこういうものだった。

箱の中に1から30までの参加人数分の札が入っていて、1人ずつそれを引いていく。ただし、自分が引いた札の番号を見てはならず、トランプマジックのように、札を自分には見えないように先生に見せ、先生は名簿の生徒の名の横にそれを記す。そして全員が引き終わり、着席したことが確認されたら一斉に手の中の札を見て自分の番号を確認する。札をもう一度箱の中に戻し、先生が20枚札を引き、該当者が当選する、という仕組みだった。

私が見たとき、札の番号は10番だった。これが4番(死)や9番(苦)だったら意気消沈しただろうが、何とも言えない番号で、ましてや緊迫した状況の中でポジティブな語呂合わせも思いつかなかった。箱の中に札を戻すとき、先生の手の近くになるよう、一番上に札をそっと置いたが、先生は取る前に箱をよく振ったため、微力な工作は水の泡と付した。「じゃあ20枚引きます」乾いた教室に先生の声がいつもより響いた。先生は20枚の札を教卓の上に番号順に黙々と並べていった。札は表にしておかれていたため、前の方の席の子は少し腰を浮かせてのぞき見をしては「あった」と小声で騒いだり、何かを察して無言で着席したりしていた。私は最も前の列の端に座っていたため、見ようと思えば当選番号を見ることができた。しかし、ここで見てしまっては何かに負けてしまうような気持ちがして、腰が上がらなかった。今思えば見ておけばよかったとも思う。現実を知っておけばよかった。

結論から言うと、私は落選した。「8番、9番、11番・・・」という先生の、事務作業の一環かと思う感情の無い声は今でも耳に残っている。
あ、9(苦)番なのに選ばれたんだ・・・何故か心の中でそんなことをのんきに呟いている私がいた。

4
そろそろ私のことも記しておく。
15の私へ
あなたが生まれてから明日で15年がたつね。
小さい頃は9月になっただけでそわそわしていたのに、目まぐるしい日々の中でいつのまにか動じなくなっていた。大人になったってことなのかな。
勉強は相変わらずそこそこだけど、この間英語のクラス分けで落ちちゃった。
オーストラリアのときもそうだったけど、いつ成績が必要になるか分からないから、備えておいてね。15歳なんだからしっかりしてよね。
見た目はあんまり成長していないけど、中身がすごく変わったよ。
14歳ってやっぱり大変だったけど、発見に満ちていた。
色んなものの見方、考え方を知ったり、世界のことについて考えるようになった。
学校と家だけの世界の外に目を向けるようになった。
もっと強くなって、その強さを他の人に分けられるような人になってほしい。

5
落選した私がどうやって教室まで帰ったのかは覚えていない。ただ、同じクラスの子に「落ちちゃった」と笑顔で話したことは想像ができる。私にはつらい時でも無理矢理笑顔で話す癖がある。「どんなときでも笑顔」と言えば聞こえはいいが、辛く、悲しく、苦しいことが相手に伝わらないことはやるせない。要するに、笑顔の仮面が顔にへばりついて剥がれないのだ。表情筋が「心配をかけてはならない」とプレッシャーを感じ、一人芝居をするのだ。表面では笑っているものの、心の中では限界だった。成績順のはずが急遽運次第の賭けになった理不尽なこと、様々なことを我慢してオーストラリアへの切符を夢見た日々を思い出しているうちに、気づいたら5時間目が始まっていた。一時休戦となっていた風邪と私の免疫の闘争が再び火蓋を切った。心にも体にも負担がたまった私は手を挙げ、保健室へ向かった。授業中に体調不良者が出た場合、保健委員が付き添わなければならない決まりなので、保健委員の子と共に教室をでた。私のオーストラリアのゴタゴタに巻き込んでしまった彼女にとても申し訳なく思った。保健室で熱を測ると、微熱があった。私にとっては熱があろうとなかろうとどうでもよかった。ただ、保健室の先生は大事を取って早退しなさいと言った。太陽がまださんさんと照り付ける中、5月の昼を一人で味わった。家につき、学校に無事家についたことを報告し、仕事中の母の携帯へも同様にした。

「早退した」「くじ引きダメだった」
「残念だったね。それで早退したの?」
「うん」
「じゃあ気が済むまで休んでいいよ」「夕食、外に食べに行く?」
「どうしよう」
「どうする」
「そうする」
「わかった」

母からの返信をもらったとき、私はどうしようもなくいたたまれなかった。他の人から見れば「たかが海外研修」という出来事に一喜一憂している自分が情けなく思えた。「気が済むまで休んでいいよ」と言ってくれた母に、こんな娘のことまで考えてくれてありがたいのと申し訳ないのが混ざった気持ちが一気に私の心を染めた。感情の整理が追いつかず、出てきたのは涙だった。もっと強くなろう、そう心に誓いを立てた5月12日だった。

6
私がいまこの備忘録を書いているのは例の「オーストラリア事件」で母が連れてきてくれたレストランだ。我が家は外食をめったにせず、私が中学生になってからは一度もない。

久しぶりの肉親との外食に少し緊張し、店員を呼ぶボタンを押す指が少しこわばった。そのとき注文したのはドリアだった。前に友だちと食べたときとはどこか味が違っていた。別のおいしさがそこにあった気がした。そして今もドリアを食べている。しかしあのときと違うのはドリンクバーを頼んでいる、という点だ。傷ついた心に炭酸飲料は刺激がありすぎるため、あのときは注文しなかったドリンクバーと再会を果たし、14最後の日に祝杯を挙げている。ふと大声がしたため、声の方向を見るとその主は前の席の男の子のようだ。男の子とお母さんは何やら口論をしている。口論と言ってもどこかの国の大人がするような自分の正当性を主張するための諍いではなく、男の子が悪戯をし、それを母親が注意をしている、という光景だった。男の子は叱られても悪びれるそぶりも見せず、同じことを繰り返し、また一喝されるのだった。

7
最後に母と本気でいがみ合ったのはいつだっただろう。考えてみたが、思い当たるのは私も前の男の子ほどの年齢のときのことばかりだ。少なくとも10歳からは本気でぶつかった記憶が無い。中学受験をしたのも私の意志ではないし、志望校も何も考えずに母の言う学校の入学者名簿に名を連ねた。合格体験記によく見られる「最初は、娘の希望する学校がいいとは思えませんでした。私も夫も理系に強い学校を勧めましたが、すでに彼女は自分の芯を持っていたようです。娘の成長に心を打たれながらも何度も話し合い、思い通りにさせようと夫と約束しました。憧れの制服に嬉しそうに腕を通す娘を見る今、あのとき娘を信じてよかったなと思っています!」というお涙頂戴話もなかった。欲しいとも思わないが。
親子円満というという言葉では片づけられない何かが私の心にもやを立ち込めた。本音で語り合うことを避けた先にいったい何が待っているというのか。偽りの未来が私のすぐ先を塞いでいるような気がして不安になった。母に素直な感情を伝える機会をつくらねば。しかし私は口で何かを伝えることが苦手だ。心のひだをうまく捕まえられるほどいい網は持ち合わせていないし、そもそも語彙力もない。ふと母の言葉を思い出した。

「たくさんの贈り物より長い一通の手紙だ」

母に手紙を渡そう。私が何を思っているのか、文字ならうまく伝えられそうだ。そもそも私は会話ではなく、文章の方が得意なのだ。でなければこの備忘録は書いていない。手紙を渡すのはいつがいいだろう。そのような機会は誕生日がいいのではないか。私の誕生日だと急すぎるため、手紙の準備ができない。では母の誕生日に「本音の手紙を渡す会」を開こうではないか。母の誕生日はいつだったか。
母のたん・・・・・・
母の・・・・・・・
たんじょうび・・・・・・?
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・?

ここで私はようやく気づいた。自分の過ちに。
母の誕生日を忘れていた。
母の誕生日は9月10日だった。

9月上旬は期末試験があるとはいえ、それは良い訳に過ぎず、親の誕生日を忘れていた自分に恐怖さえ覚えた。悔やんでも9月10日は帰ってこない。むしろ帰ってきたら国中が混乱するだろう。一国民として、国家の治安を最優先に、9月10日の往復を望むのはやめた。今からでも「長い一通の手紙」を渡そうと思い、ペンを握る私に脳が待ったをかけた。

この備忘録を渡すのはどうだろう。
たしかにこれは母との思い出を描いた。だがこれを渡すとなると、「誰かさんの誕生日忘れた事件」を自白することになる。どの面下げて渡せばよいのか。自分で想像して面白くなった。
もう、誤魔化すのはやめにしよう。忘れていたことも堂々と伝えよう。申し訳ない気持ちもきちんと書いたのだから、許してくれるだろう。母にとって悲しいことは、娘に己の出生を忘れられることより、娘が素直に本音を語らないことではないか。14歳最後の記念にと軽い気持ちで書き始めたこの備忘録を長い一通りの手紙として母に贈りたい。

やはり前触れもなくいきなり渡すのは照れくさい。誕生日を忘れておいてどの口が言うかと思うが、何かのコンクールにでも出品したらどうだろう。そして、「これ、私が書いたやつ、受賞したらしいんだけど・・・・」などと言って渡せばいいきっかけではないか。そう思いすぐに検索をし、このコンクールにたどり着いた。テーマは「大切な『ある日』」を迷うことなく選んだ。私はこのコンクールを知ってから書いたのではない。備忘録を書いてからコンクールを見つけたのだ。となればこれは私のためにあると言っても過言ではない。というかそうだろう。もし受賞しなければ私は家庭事情を見ず知らずの審査員に晒すだけだが、心を温めてもらえるだけでも幸いだ。

これが私の愛の備忘録、すなわち母への長い一通の手紙である。

14
私は帰宅した。レストランで手書きで書いた備忘録をパソコンに打ち直している。
父が帰ってきた。いつもは深夜0時ごろに帰宅する父が一時間早く家の鍵を開ける音がする。私は部屋にいたため顔は見ていないが、心の中で「おめでとう」と言っていることだろう。というか、言ってもらわねば困るのだが。何の都合で早く帰宅しようと、あと一時間で15歳になる女には自分のためとしか思えないのだ。

15
15秒前、14秒前、13秒前・・・
デジタル時計を見ながらどんどん緊張する。一分前までは14歳を脱皮するその瞬間にジャンプをして「地球にいなかった」というのも面白いかと思ったが、やめた。きちんと地に足をつけて、胸を張って一歩ずつ歩んでいくような15歳になりたいと思った。

9月29日 0:00:00
私はベッドで寝ている母の手をそっと握った。
My everyday is full of Love.