サステナビリティ

ARUHIアワード

【ARUHI アワード2022】
『ふやけてもいいですか?』 小松波瑠

アジア最大級の国際短編映画祭ショートショート フィルムフェスティバル & アジア (SSFF & ASIA)が展開している、短編小説公募プロジェクト「BOOK SHORTS (ブックショート)」と当社がコラボレーションし、3つのテーマで短編小説を募集した「ARUHIアワード」。応募いただいた作品の中から選ばれた優秀作品を全文公開します。

「あんた、ずっと家に籠って何してんの?」

 お隣に住むフミさんがお裾分けを持ってきてくれた。

 お隣といっても歩いて結構な距離がある。お裾分けついでに、隣に越してきた私の素性を探りに来たのかもしれない。腰の曲がった彼女に手渡されたタッパには蕨のキムチ漬けが入っていた。
「仕事が忙しくて、なかなか外に出られないんですよね」
「仕事って、家の中で?」

 この辺の仕事といえば、畑作業や米作りが主流なのだろうか、フミさんは珍しいものを見る目を私に向けた。フミさんの好奇心は止まらなかった。
「ずっと家の中いて、どんな仕事してんの?」
「どんな・・・アプリってわかります?」
「炙り?」
「ア・プ・リです。スマホとかで使える・・・」

 フミさんは右手をブンブン振った。
「そっちの方はさっぱりわがんね」

 説明するのが大変そうだったので、フミさんが引き下がってくれて少しほっとした。
「あんた、出来るんだってね」

 出来るというのは、いわゆる勉強ができるとか賢いということなんだろう。こういうことを言われた場合は「はぁ」とか「まぁ」というような返事をするようにしている。
「サチさんがいっつも、あんたのこと自慢してたよ。東大でなんだか忘れちまったけど、難しい勉強してるって」

 専攻は経営学です、という言葉を飲み込んだ。

 サチさんというのは一昨年亡くなった私の祖母のことだ。彼女が亡くなった後、誰も住まなくなったこの家は取り壊す方向で話が進められていたのだが、そこにやってきたのがコロナだった。私の仕事はあっという間にリモートになり、東京の狭いワンルームで過ごす日々に息が詰まりそうだったし、ニュースから流れる東京の感染者数を聞くだけでストレスが溜まった。何かを変えなければと思った時に浮かんだのが福島県の只見川の近くにある祖母の住んだこの家だった。
「あんたみたいな若くて賢い女の人が、こんな村に来てくれるなんてね」

 “カッカ”というスラックの呼び出し音が聞こえる。
「あんた男は?」
「男?」
「旦那とかいないのかい?」

 “カッカ”。再びスラックに呼び出される。フミさんにこの音は聞こえていないらしい。
「ごめんなさい、仕事に戻らないと」

 もう少し話したそうなフミさんには申し訳なかったが、パソコンの前に戻らなければいけなかった。これから退職を希望している部下とのミーティングが入っている。コーヒーを注いで私は気持ちを切り替えた。

 パソコンの画面に望月さんの顔が映る。彼のZOOMの背景はいつもと同じ、人気RPGゲームのキャラクターだ。
「気持ちは変わらないですか?」

 部下から退職の申し出を受けるのは何度も経験していることだったが、この時間には一向に慣れない。

 先月、私は会社の執行役員に就任した。33歳、最年少で唯一の女性役員だ。スマホゲームを提供している今の会社へは大学のゼミの先輩に声をかけてもらって入社した。
「ゆくゆくは高崎みたいな人にアプリチームを統括してもらいたい」

 出来立てほやほやの会社に来て欲しいと言われた時は、正直迷いはあったが、尊敬している先輩に目をつけてもらえたことが嬉しかったし、若いうちから会社経営に近いところで働けるところに魅力を感じた。在学中からインターンとして働かせてもらい、社員になったタイミングで私はアプリチームのマネージャーになった。アプリチームはアプリを作るエンジニアで構成されているのだが、彼らはコミュニケーションに長けているというよりは職人気質なタイプが多く、チームのまとめ役が欠けていた。

 昔から生徒会長や部活のキャプテンを務めていたこともあって、チームや組織のまとめ役に自分は向いていると思う節があった。先輩もそこを買ってくれていたのだが、マネージャーとして働き始めてからは自分の力不足を痛感する毎日だった。チームをまとめていくのと並行して、アプリ障害、クレームの嵐、落ちるサーバー、その他、起きてほしくない事はなんでも起きた。どれもしんどい出来事だが、一番メンタルをやられるのは人に辞められる事だった。働いているエンジニアは私より年上の男性がほとんどだ。私の力不足と、大学を卒業したての社会経験もない女がいきなりマネージャーになるのを快く思ってない人もいて、社員には定期的に去られてしまった。

「去る者追わず。理由はそれぞれ、キリがないから」

 相談すると、先輩にはいつもそのように言われた。その通りなのだ。人が辞めていく理由を追求したってなんの得もない。でも、どこかで私に何か足りなかったのではないかと透明な傷を負っていた。チームをまとめる、軌道に乗せる、会社を成長させる、私にはやらなければいけない事がたくさんある。そう自分に言い聞かせて、傷には気づかないふりをして日々の仕事をこなした。

 夜の虫が泣いている。
「望月さんやっぱり辞めちゃうんですか?」

 画面越しの矢木ちゃんはすっぴんでヘアバンドをしたままの姿だ。どうやら飲んでいるのはビールらしい。アプリチームの矢木ちゃんとは時々ZOOMを繋いで夕飯を一緒に食べる。
「そうなると思う」
「次とか決まっているんですかね?」
「どうなのかな、そこまで聞いてないけど」
「新しい人員、入れないとですね」
「矢木ちゃん、誰か知り合いとかいない?」
「SNSに投げてみますか」
「助かる」
「送別会とかどうします?やっぱオンラインですかね?」
「収まってきているとは言えね・・・」
「コロナきっかけで散らばっちゃったので、集まるのも難しいですよね。ていうかそもそも当の望月さんが参加するのか問題」

 会社の飲み会やイベントに望月さんはあまり参加していなかった。強制ではないのだが、参加しやすい雰囲気を作れていなかったのではないかと思ってしまう時がある。
「本人に参加の意思がなければ無理にやらなくてもいいですかね?」
「あ、美味しい」

 望月さんの送別会のことを考えていたはずなのに、思わず声が出た。
「なんですか、それ」

 見えもしないのに矢木ちゃんが画面いっぱいに顔を近づけてくる。
「これ、もらったんだけどね、お隣さんに。蕨のキムチ漬け」

 矢木ちゃんに見えるようにタッパを画面に向けた。
「なんですか、その美味しそうなものは」
「初めて食べた、ご飯がススムよこれ」
「それ、絶対お酒もススムやつですよ。日本酒とか」
「お酒飲めないからな」
「高崎さん、絶対損してます」
「そうかもね」
「高崎さん、ハードな仕事こなしまくってるのにお酒飲まないでよくやっていられますね。どうやって1日切り替えてるんですか?」
「それね、最近見つけたの」
「なんですか?」
「温泉」
「温泉?」
「そう、今住んでるところの近くにねあるの、小さな大衆浴場っていうの?観光地の温泉っていうのじゃなくて地元の人のための温泉っていう感じだからさ、誰もいない貸切みたいな時もあるのよ」
「だからだったんですね」
「え?」
「最近、画面越しでもわかりますもん、高崎さんお肌ツルツルだって」
「ほんとに?効果出てる?」

 パソコンに映る自分の顔を確認した。
「今度高崎さんの住んでるところ遊びに行ってもいいですか?」
「いいけど、何にもなくてビックリすると思うよ。コンビニもないんだからね」

 矢木ちゃんは確か東京、それも港区産まれの港区育ちだったはずだ。こんな山と川しかなくて街灯も少なくて、夜の7時には辺りが真っ暗になってしまうところに来たら驚いてしまうのではなのいかと思った。

 矢木ちゃんとのZOOM夕食会を終えて、残った仕事を片付けてから桐の湯へ向かった。家から歩いて5分ほどのところに桐の湯はある。辺りは真っ暗で、聞こえてくるのは只見川の流れる音だけだ。

 夜の8時、女湯の暖簾を潜ると誰もいなかった。それをいいことに私は無造作に服を脱いで裸になった。髪と体をざっと洗い、湯船に向かった。

 足先でお湯の温度を確かめる。最初にこのお湯に浸かった時はあまりの熱さに驚いてしまったが、通ううちに体がどんどん慣れてきている気がする。今では肩まですっと体を預けてしまえるくらい平気になっている。
「あぁ〜」
と思わず大きな声が出る。誰もいないから出せる声だ。ここで暮らし始めて、久しぶりに体が温まるという体験をしている。東京で暮らしていた時は、ほとんどシャワーしか使っていなかった。朝、シャワーを浴びて会社へ向かうと体は冷えるばかりである。それなのに忙しすぎて私は自分の体が冷えていることにさえ気づいていなかった。

 また一人辞めてしまう。あの時から私は成長できているのだろうか。役職に相応しい人間なのだろうか。チームをまとめられているのだろうか。部下の気持ちに寄り添えてあげられているのだろうか。

 心が弱っているとき、温かいものに触れると涙が出てくる。

 今、自分の心がどのくらい弱っているのか分からないが、涙がとめどなく溢れてきた。誰もいないし、少し声を出して泣いてみた。それでも全然平気だった。湯口からゴボゴボと溢れ出てくるお湯の音が私の泣き声をかき消してくれた。

 矢木ちゃんは本当に来た。仕事用のパソコンを抱え、大きなリュックを背負って。私の心配をよそに、彼女は山や川の近さに感動し不便さに文句も言わなかった。むしろ私の新しい日常を気に入ってくれているようだった。
「最高ですね」

 お湯に浸かりながら矢木ちゃんは言った。数日の滞在のはずが彼女はもう一週間も留まっている。正直、直接面と向かって仕事ができるのは楽だったし、何より話し相手がいることが有難かった。
「私も住んじゃおうかな、こっち」
「え、本当?」
「でも彼氏がなー」
「まぁ、そういうのがあると難しいよね」
「別れようかなー」
「え、そうなの?」

 矢木ちゃんは私を翻弄してふふふと笑う。
「高崎さん、知り合いもいないのにこっちに一人で住んで寂しくないんですか?」
「それが意外と平気」
「こうやって直接会えるのは嬉しいけど、離れてても画面越しに会えるし、ご近所さんとも挨拶しあったりできてるし」
「ご近所さんといえば、私あれが食べたいんですけど」
「蕨のキムチ漬け?」
「それです」
「もう食べちゃったよ」
「もらいに行ったりできないですか?どうしても食べたいんです」

 もともとフットワークの軽い矢木ちゃんではあるが、ここに来てバグっている。

 フミさんの家の灯りはついていた。やっぱりやめようよ、なんて玄関先で私たちがモタモタしているのに気がついてフミさんが玄関を開けてくれた。キムチの蕨漬けが食べたいと伝えると快く中に入れてくれた。
「すみません、なんか押しかけてしまって」
「いいのいいの、たくさんあるから持っていって。なんか飲むかい?」

 そう言いながら一升瓶をつかむフミさんに矢木ちゃんは甘えまくった。
「おばあちゃん、一人で暮らしてるんですか?」

 矢木ちゃんとフミさんはすっかりほろ酔い状態になっている。
「そうだよ、お父さんが亡くなってもう3年になるからね、一昨年はあんたんとこのおばあちゃんが亡くなっちゃったしね」
「寂しいね」
「そんなことないよ、もうそろそろ私もそっちに行くだろうからさ」

 フミさんはケタケタ笑った。

 フミさんの家は物が少なくきれいに整えられていた。
「そう言えばあんた、冬もこっちにいるのかい?」
「はい、そのつもりですけど」
「こっちの冬は大変だよ、雪が」
「雪、そうですね」

 この辺の雪の事情はなんとなく聞いていた。
「おばあちゃん、どうしてるの?」
「役場の人が除雪しに来てくれるよ、でも人手が足りなくてね。状況によっては冬だけでも郡山にいる息子のとこに行こうかなとも考えてるよ」
「冬をここで過ごすつもりなら、もっとご近所と付き合いしないとダメだよ」

 酔っ払っていたフミさんが真剣な顔になる。
「いくら仕事が忙しくっても。声かけあって、助け合っていかないとね」

 私は若くして肩書きがついてしまったので、誰かに教えられることが少なくなってしまったような気がしていた。もっとこんな風に色んな人に色んなことを言ってもらいたかった。

 家に戻ってからも、矢木ちゃんは蕨のキムチ漬けを肴に飲み続けた。
「そうだ、望月さんに送別会のこと聞かなくちゃ」
「今、起きてるかな?」
「ゲームとかしてるんじゃないですか?」
「起きてたら、ZOOMで話してみようよ」
「え、3人で?のってくれますかね?」
「ダメでもいいから声かけてみようよ」

 お湯のおかげで体はまだポカポカしていた。心のストッパーがふやけている。私は望月さんにスラックのメンションを飛ばしてみた。